uchunohazama’s blog

孤独がデフォルト。

思い切りのんびりと進行している引越し

年末からゆっくりと、それは始まっていて、それまで手をつけることのなかった、父と息子の遺品の整理から始まり、手をつけなかったのは辛いからで、手をつけて見ればすぐに泣いて動けなくなる毎日で、何をやってるんだかわからなかった。

 

それでもゆっくり、1つずつ捨てたり残したりを繰り返して、本当に世界遺産の如く、そこにあるのが当たり前だったゴミ、という存在にも気づいた。別れは辛いのだけど、ただそこにあるだけの物。

 

それらを見直す機会になったと同時に、そこに父がいたり、そこに息子がいたのだとも知ることができた。

 

私はそれらに囲まれていて、なにかを手にいれていた。

 

ライナスの毛布だったのかもしれない。

 

 

もはや、息子が成長して行く時に、大きく関わったこの家自体が、もう私のものでなくなっていき、更に壊される日が近づいているのだから、感傷に浸る暇もそんなにない。

 

笑えるのは座れるの?と思われるほど、ボロボロのダイニングセットを、私はボンドや紐で直して使っている事で、もう座面は破れていたが出ている。

 

このセットはこの家と同じだけここにいる。

 

普通の人なら取り替えているのかもしれないけれど、私には考えられなかった。

このダイニングテーブルで母は糖尿と闘い、食後にクッキーを食べる食べないで私と大喧嘩になり、私が食事をしなくなって、激痩せした。

 

このダイニングテーブルで、私の作った食事を家族全員で食べた。

このダイニングテーブルで父は母を亡くして1人泣いた。

このダイニングテーブルで、私は父を亡くして泣いた。

このダイニングテーブルで、今、息子と家族を思って泣いている。

 

 

 

もうあまりにも使えないので、この家にある間は誤魔化して使っていたけど、本当に捨てなくてはならないので、捨てます。

 

 

この家には本当に40年以上も前の物も沢山あって、木製のワゴンは、前の家の時からあるし、鏡のないドレッサーもかれこれ50年使っている母の遺品だ。

 

でも私は持って行く。

 

サイドテーブルは、60年ぐらいの年季の物は捨てて、30年の物を持っていく。

 

父の老後に何故だか沢山買い込んでいたあのロボットみたいなテレビはすてる。

以前も2台捨てたことがあるけど、まだあって、また2台捨てなくてはならない。

 

あの時、お金無くて捨てられなかったんだっけ。。。。

息子は父の介護を私がしなくてはならない間に、すっかりギャンブルとオンラインゲームにハマってしまっていた。

 

その後に腸重積などで大手術になるほど、癒着やら起きて生死の狭間を行き来した後、再就職がとても大変で、その間に、私は軽く200万を失う。

 

その後もなんだかんだで70万。

 

そして最後、どんなに私が説明しても、お金を管理することが出来ない彼には、それが大きなストレスとなって、病気もあったけど、またお金を持ち出す。

 

思い出すだけでも辛かった。

 

私が死んだらこの子はどうなるんだろう。

 

私は彼に殺されてもいいと本気で思いつつ、犯罪を起こさせてはならないから包丁をしまい、覚悟し切っていつもしっかり出ようと、毅然と譲らなかった。

そうすることは辛かった。

親ならわかると思うけど、子供を叩けば叩いた手と心が、その痛みの何倍にもなって戻って来るし、叱って声を荒げれば、その何倍も心が苦しくて悶えてしまう。

母しか出来ない苦しさは、それでも母として私はそうし続けるのだ、と確信していくしか出来なかった。

 

まさか、息子が先に逝くなんて、全く計算外だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

はぁ、いつも結局、この悲しみが私を襲う。

優しくしたかったし、私がああしていた向こう側の夢は、彼と私はゆっくりでも小さく働いて、彼の借金も全額返し、私は彼の為に朝、昼、晩と食事を作って、穏やかに過ごしたかった。

 

 

 

 

 

 

 

私の母は、私と最後まで折り合わなくなってしまったのだけれど、それでも母は、私と私の息子と、小さな家で暮らしたかったと、最後の方に言っていた。

 

 

華やかで、なんでも持っていってしまうほど、綺麗で、明るい母は、どちらかと言えば内気で(今や誰も信じない程、完成されたペルソナは持っております)1人で黙っている方が好きな私には、かなりウザい存在でもあり、彼女から配給されるものに甘んじているのも嫌だった。

母は、料理が下手で、どうしてあんなに一生懸命やるのに美味しくないのかわからないけど、甘辛いか、塩胡椒か、ケチャップ味か、ソース味、醤油味しかない人で、私はお陰で給食が不味いと思わなかった(笑)

友人の家に行くのもかなり制限されていたけど、流石に中学生にもなると行動範囲はそこそこ広がり、広がれば嘘ついてでも人並みになって、世の中を知っていく私は、みるみる不味いと美味しいとはこんな物だったのだと気付いていく(笑)

 

料理は小学生からやっていて、母が頑張る為に買ってきた料理の本は、すっかり私の基礎の中に組み込まれ、私は環境の割に料理が得意になっていく。

 

母と私はそういう意味では全く逆で、だから分かり合えないことも沢山あって、母のポジティブは感情的で、私のポジティブは理屈っぽい。

 

いずれにせよ、人の生き方などは正解もないし、余りが沢山ある計算式のような物で、分数や、代数で置き換えても、細かいところにズレがあり、更に何事もパラドックスによる誤差もあるのだから、会うなんてあり得ない、こうして発信した文章が、たまたま、誰かに触れても、その相手の勝手な解釈で、共感したり、反感を持ったり、考え直したりであるに過ぎないし、また、私も他人のブログを渡り歩いてはそんなことを繰り返しているが、存在が文章だけであるのと、人から語られる言葉に比べれば、はるかに文章だけの方が私は居心地が良い。

だからブログが好きだし、読むのも書くのも大好きなのだけど、私と母は、言葉バトル、本人の見かけも含んでのバトルになると、圧倒的に母の方が完成されていた。

だからいつも私は敗北感に一杯になっていたし、私は母の望む子供にはなれないと、辛かった。

 

私は家を出て、初めて自分が少しは、見られるに耐えられる存在なのかもしれないことに気づいたくらい、私はコンプレックスの塊だった。

 

小学生から化け物、お化け、フランケンと、大柄で太っていたので言われてたし、腰高で、歩く時、今で言うヒップホップな歩き方だったので、踊りながら歩く人とか言われた。

 

あー、今思えば生まれるの、45年くらい早かったかもー(笑)

 

 

 

そんな母は、私が家を出て10年で亡くなってしまった。途中、2年ほど一緒に暮らしたけれど、糖尿なのにお菓子をやめない、腹八分でいられない。

 

 

私が激痩せしても、そんなことに気づかないくらい、母はその病と闘い、でも食事を改善出来ず、家の中ではいつもその事で争っていて、私達が折れてしまう。

 

 

 

 

 

 

 

そんな思い出も、きっともう、無くなっていくんだ。

 

 

 

私は思い出から解放されて楽になるのか、悲しみも忘れてしまうのか、多くの私の罪はどうなるのだろう。

 

 

 

あの時に母を叩いても、食べることをやめさせられたら、とか、息子に甘々な私でいられたらとか、愛していることにもっと素直でいられたらとか、自分の罪は数限りなく、悲しい思い出の裏にびっしりとある。

 

 

 

信念があり、時に憎しみになって心に現れていたとしても、それは私の心の中の愛であり、そして誰よりも私は私の犯している罪を知っている。

 

民事や刑事事件ではないけれど、私が私を生きていくだけで、罪深いのだ、と、いつも思う。

 

 

 

ひょんなことから、牧師様と知り合って、その牧師様と知り合った場所で働いていた時に息子は亡くなった。

 

 

 

牧師様曰く、キリストは人である上の罪を全て負ってくださっているから祈りなさいと言う。

 

私は彼に会うまで、その罪というものさえ知らなかった。みんな罪なんか負っているのかと反感さえあった。

 

罪とはそんなものではないと言う。

本当に悪いことが罪ではない。

悪いことをしたから罪なのではなく、ただそこに罪があって、私達は生まれた事からその罪を持ち、更にキリストに祈ることによって、その罪を許されている。

 

 

 

まだそこが、なんとなくわかってきた、、程度で、このキリスト教の基礎の基礎さえ深淵だ。

 

 

 

 

 

 

引っ越したら、私は少しキリストを学ぼうかな。

 

 

少しそこに希望を持って。