傷だらけの天使
細かいところは忘れている。
でも強烈に心を奪われた経験がある事は確かだ。
ショーケンはカッコいい。
父がテレビ局で他校から歩いてくるショーケンのかっこよさに見とれた、というからかなりカッコいい。
私がとある今はなきとある高級スーパーで、マヨ( 川崎麻世 )を見た時もかなりかっこよかった。
でもオーラはショーケン勝ちかもね。うん、オーラ。
この時に1番シンパシィを感じたのは水谷豊だったかも知れない。
あきらは純でバカで、愚かで、そして輝く。
修はカッコよくて悪くて、毒ばかり吐くけどカッコよく、でもあんな人はどこにも少しだけのやや選抜組の、そしてあの完成度はかなりトップクラスの、そういう人で、私ではなかった。
私は選抜組ではないし、変わっているけど、スペシャルではない。どちらかと言うと外れてる。
だから、あきらなのだ。
でも自分は外れもの、アウトロー、ドロップアウターだと、受け入れることができるのは、人生も終わりかけた今なのだ。そうだろう、どこか自分をどうにかよく見せたい、という愚かなそして、それを引っ張る夢、あきらの場合は健太と修と自分の暮らし、理想の家庭。。。
そんなものはありはしない、このドラマは悲しくも現実を突きつける。
受け入れはしなかったけど、でもどこかでわかっている。だから違和感より共感とそして深い悲しみが、あきらを支持してしまう。
人間がいかに自分勝手で、自分の生き方を中心にしてしまうか、それは私も含めて、人を含んでいる、客観的に、学者の意見やエビデンス、全てをどうやっても、視点が個人、もしくは一点からの観測の結果である以上、そこにはパラドックスがあって、そこに個の存在がある。
そこを影響し合う事で塊になっていくのだ。
勝手なことを言っている人が多いという事はそれだけエネルギッシュであり活動している証拠だ。
と、エントロピーの法則をここに使うのは間違ってるけどね。
私達は固まらない。
社会という曖昧なものを一つの形として明確に表すことができるなら、その法則は当てはまるかもしれないが、私達は、自分たちというこの形しか知らない。
愚かな塊は愚かでそしてあきらだ。
と、私は思ってしまうのだった。
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