uchunohazama’s blog

孤独がデフォルト。

FINALE

終楽章に入っていく。

その感覚は若い人にはわからない。

それぞれの体調や体力もあるだろう。

やはり私の周りでも、その年齢に関わらず、死にたくない、お金が欲しい、旅に行きたい、と、気持ちの強い人は元気だし、働くし、パワフルだ。若いもんには負けない、その気持ちもとても強い。

 

終楽章は、その音楽の一貫して通してきた主題と、展開をまとめていく。

大団円もあれば、静かに完結していくもの、最後に何もなくなるもの。。。色々な終わり方がある。

 

私はなんだろう。合唱のない第九もいいが、シェヘラザードもいい。。。

 

 

大嵐に巻き込まれて、船の上で展開した人間の様々なドラマは、そして波の中に飲み込まれて、嵐が去って凪いだ海は何事もなかった様にまた朝日が登る。。。

 

 

 

私もきっと働き始めたら船の上の人となるのだろう。そして権力や支配や責任も義務も、そして人の温もりや優しさを求めたり。。でもやはり、今は家にいて引越しに向かう1人の61歳の私だ(笑)

エンジンはロウで、出来ればニュートラルでゆっくり、他とぶつからない様に動くぐらいに留めておきたい。が、、、ハンドルもポンコツでねぇ。悪気なくぶつかっていることがある。

 

でも、そういう時間の過ごし方が楽しいし、ドジでぶつかってしまいつつも、攻撃的な意味ではないので、そういうゆったりしたポンコツな自分のモードが、居心地は良く、ある意味では寂しい。

 

老いを感じる、限界を知る、競うことが辛くなる、、、これがやはり最終章だなぁと思う自分の気持ちのひとつで、人より早く席に座るとか、場所を取るとか、無理矢理手を伸ばしてそこに行くとか、そういうのが辛い。欲というか、得を取りに行くというか。

いや、もう、負けながら、負けを生きても、少し居心地の良い場所を自分より疲れている高齢者に譲ってもいいから、持ってる物であげてられる物はあげるから、心静かに生きさせて欲しい。、

 

心に波が打たれる様な感じはなるべく避けたい。

 

そして身体はとても疲れて心も疲れるので、外に出たくなくなるわけだ。

 

 

 

 

引越しに向かい、無防備に皆が新しい未来、という言葉を使って、このロウギアの私に言葉をかける。気持ちはなんとなく暗い私に、元気や喝を入れてるのかもしれない、引越しをする私に送る、エールなかもしれないというのはわかる。

 

でも私にとって未来は最後は死なのである。

最終楽章はコーダ。

普通なら、まだ次の楽章が待っているし、展開も変わって、主題も変わる。

でも私は終楽章だ。

ベートーベンのソナタ、悲愴だったら三楽章は何だか悟っているみたいでもあり、軽やかでいいなあ、と思い、そして私はあんな風に軽やかに三楽章を過ごせるかなぁと思う。

まだ第二楽章みたいな気もする。

悲愴の第二楽章は良いねぇ。

 

高校生の頃は第一楽章が好きだった。

懸命に弾いていたものだ。試験があって、先生は三楽章を勧めたけど、結局は第一楽章を弾き切る力もなく(笑)ムーンライトソナタになった(笑)

ま、私なんてその程度の、何ちゃって、、で、でも、あの程度まで頑張れば弾けた経験は、音楽を聴く上で役に立っているのかもしれない。

 

 

さて、家族が全員亡くなって、親類も居ないから、最後の引越しをする。

主題も変えて、違う展開を探していく。

未来のためにというより、死んでいくために。

 

やはりそれは覚悟も含んで、寂しい。

いや、寂しいのとは違う。

フィナーレ

ラソンなら最後の競技場が見えて来る所かな。

最終章のコーダは、競技場で周回している時だろうから、いま、私は競技場への最後のスパートをしている感じなのかもしれない。

終わるんだなぁという気持ち。

 

こういう気持ちは、やはり同じくらいの年齢の人の方がわかるのかなぁ。。。

 

私はケチンボだったから、今回、家具を買ったり、家電を買ったりした。

全部、2〜40年使っている物だから買い換える。

 

最後の20年のために買ってあげるのだ。

私の為に。

 

 

それは若い人には未来や、新しいものに囲まれることに見えるのだろうけど、私は違う。

野生動物が、最後に隠れて迎える森の奥を、整えている様な感覚なのだ。

 

 

 

 

景色を変える、時の流れを変える、この意味が判る人はどれだけいるのかなぁ。

 

 

 

 

 

そういう感覚をわかる人と、共に過ごしたいなぁとは思うが、ま、人との付き合いは縁だからね。

この縁という奇跡は、大切なものだと思う。

この巡り合わせで、人生が出来ているのだから。。。

 

 

 

 

終章が始まる。