uchunohazama’s blog

孤独がデフォルト。

3週間前に引っ越しました。

引っ越す直前まで、前の家が名残惜しく、私は祖先から、と、言っても両親だけど、その何というか、歴史を切り取って切り捨てて生きていく自分が情けなく、申し訳なく、家を売却すると決めてから落ち込みっぱなしで、何という自分なのだと、責めていたが、反面、私は息子が居ない現実を、改めて見つめたくて、それは、彼の思い出の全くない空間で、彼を感じたかったという表現で通じるのだろうか。

 

前の家は出たり入ったりしたけれど、その中で息子は育っていて、あらゆるところに思い出がある。

ずっと2人で暮らしていた六畳間は、最後は彼の部屋になった。

 

両親が使い、そして私と息子が使って来た二段ベッドは捨てて処分した。

あのベッドは、ずっと私達を見つめて来ていて、私がここに戻ってからずっと一緒だった。

最後は息子のベッドになった。

 

そういうものが前の家は溢れていて、どれもよくよく考えてみると50年、40年と使っていて、ついこの間、新品で輝いていた様に思えるものは、この家に越して来た両親が新しく買い替えたもので、それはもうすでに40年の時を過ぎていた。

 

まさに息子と変わらない年月をこの家で過ごしてきた者たちばかりなのだ。

 

それを全て私は捨てた。

 

否、母がいつも仕事に行く前に使っていたドレッサー、いつのまにか大きな鏡は無くなってしまい、父が何かに使ったのだと思うけれど、跡形もなくなっていて、チェストの部分だけが残っているのは、持って来ている。

まだ新しいと思い込んでいたが、ここに越して来た途端に蝶番が割れて、それを補修しながら考えてみたら50年も使っていた。

 

そんなものばかりがあって、でも息子のものは、服と、食器以外はほとんど捨ててしまった。

 

服は着ている。私が着ているのだ。

食器も使う。使いながら彼を思う。

 

こうしている時間は悲しくて哀しくて、でもそして、この悲しみ方は前の家では出来なかったのだ。

 

あまりにも思い出があり過ぎて、あまりにも彼がそこかしこに生きていて、いつもの何も変わらなかった。

いつも仕事の時間が違うから、元気な時はすれ違っていたから、それと全く変わらない。

 

でもこの家には何もないから、彼は居ない。

本当に居ない。

 

その悲しみはヒシヒシと、心に染みて来ている。そして毎日、私は仏壇に線香をあげて、水を変えている。

 

こうしたかった。

 

 

これが1番したかったことなので、それは良いのだけれど、さて、この最近のコロナで、仕事がない。

 

仕事がないので、お金がない。

お金がなければ線香だ、水だとも言っていられなくなって来てしまった。

私の仕事配給先も、かなり怪しくなって来ている。うーん、、潰れるか?

 

とにかく日銭を稼がなければならないから、このコロナが落ち着いたら、すぐにでも行動しなくてはならないだろう。

なかなか厳しい。

 

 

世の中はどうなるのだろう。

 

息子を弔うつもりだったのに、私が弔われてしまう。

 

ま、もう私、息子のそばに行けということなのかな。。