こうやって、書き殴り(笑)
数年後、読んでいて気恥ずかしいことって多いんだろうなぁ。
ブログって、呟き、最近は吐き出す、という意味もある様な気がして、Webのlogだからブログなんだそうだけど、ダイアログ、モノローグ、そしてブログの時代になったんだね。
この、お互いに顔を合わせない相手と言葉だけ交わすという文化は、最初、オフ会とかする度に乖離を感じてね、こんなに違うんだ、と思ったけど、それはきっとというか、いつも相手の反応からかなり私側にもあると知っている。
私の書くものを見て私を想像している人は、私がどんな人に見えるんだろう。
人は外見でお互いを決めつけすぎる。
ネットの良い所は、その外見がない所だ。
世の中は、外見があると、絶対に見かけの良い方に軍配が上がる。
見かけというのは、イメージが爽やか、オーラが明るい、なども含まれる。
否、本人の心の在り方がそれを作るかも知れない。だから見かけ、とは限らないのか?
いやいや、そんな事もない。
細くて、小さい女性と、太くてでっかい女性がいて、小さい方がネガティブな時、みんな助けてあげたくなるが、デカい方がネガティブな時は自分でやれと思うのはどうだろう?
電車で、細い女子が寄りかかると支えたいが、デカいオヤジが寄りかかれば、思い切りスカして蹈鞴を踏ませてやろうと思うのもそうだ。
私は何人たりとも許さないが。
私の母は、すごく華があって、美人ではないけれど、でも綺麗なオーラがあった。
心の中はいつも寂しくて、人に愛されたい想いに満ちていたから、人にはいつも優しかった。
だからと言って闇がないわけではなく、すべての彼女の闇は私に注入される。
だから私は彼女の側に長くいる事が出来なかなってしまった。
早々に家で同然で家を出た。
でも世間は見掛けの美しい母に同情、私は悪い子になった。
それでも良かった。
私は母の本音を知っていたし、それを大切にしていたから。
顔というのは恐ろしいもので、ネガティブからポジティブに移行すると顔が変わる。
あれはどういう訳なんだろう。
それと人に向けた自分と自分に向けた自分への顔もすごく違う。
見掛けの良い人は、故にポジティブで、人を大切にし、愛されるために生きようとする人なのかも知れない。
と思い始めた頃、そうでもないことにも気付いた。悪魔かよ、という美男美女を、たくさん見てきたからだ。
整形もあるかも知れないが、それにしても土台もあるだろう。
作られた美女でもなく、お嬢様で、裏はめちゃくちゃ破滅的な方も沢山知った。
それでも世論は、悪行がかなり暴露されるまで美しい方に傾き、そして、美しくない方は、一つでも強く主張して、それが受け入れ難いものだと、思い切り叩かれる。
暫くして、ちょっといい感じの人が同じことを言うと、世論は思い切りそれに従ったりして、それ、前にアイツが言ってたじゃん、と私が言っても、はぁ?と白い目で一瞥されて終わる。
そんなもんだ。
そうそう、電車の中の話と言えば、、、
ごく稀に、電車で寝てしまって、肩を貸してくれている人に出逢う事がある。あれは本当に神だと思う。特にイケメンだと、ネ申だと思う。
ちょっと頭が触れただけで肩を思い切り突き返す奴なんて、寄りかかってもないのに、なんだって喧嘩したくもなる。
私はそういう時はスッと前のめりにして肩を除ける。
肩を貸すのも体力がないし、突き返すほど鬼でもないってとこ。
あの突き返すっていうのも、自分はもう、いっぱいいっぱいで、気分は寄るな触るな近づくな、な気分なんだろう。
こんなにお互い疲れ切っているのに、どうして言葉は掛けられないのだろう。
大丈夫ですか?
お疲れ様。
私は見ず知らずの人同士、その場限りなら、限りだからこそ、偽善でいいと思う。
偽善、偽善と騒ぐけど、一生付き合うなら偽善かも知れないけど、その場だけだよ?
お互いがそれで和らぐなら、偽善も時には必要だ。ましてソサエティーなのだから。
本音だけで生きたら、私なんて何人の人の顔を殴り、殴られたかわからない(笑)
それでも本音を言い続けて、かなり敵も多いのだ。
それは付き合う日々に対する責任もあるんだけど誰もそこはわかっちゃいない。
そうだよ、暗黙の了解が、表面は穏やかに他人の悪口で繋がろうだからね。
所詮、お互いに生きている限り、己のエゴは無くならず、すべては自分という、この命が、勝手に生きて、勝手に考えて、勝手に覚えた感覚で、ロジックで、判断しているに過ぎないから、出来る事なら、なるべく偽善でも言葉を交わし、喧嘩ではなく、討論をして、違いを確かめて知る、これはとても社会や人間が成長するのに役に立つと思う。
ブログは、相手をの姿を知らないからこそ、良い意味で言葉だけを感じて知る事ができる。
そして私は今書いていることを忘れてしまった数年後に、これを見て、恥ずかしさに悶絶するかも知れない。。。