uchunohazama’s blog

孤独がデフォルト。

もともと

ポンコツで、ヘタレで、内気なのに、まぁ、よくここまで人に意見をしたり、強気に出たりできる様になったもんだ。

 

私は小さい頃はしょっちゅう泣いていた。

母親以外が怖くて、すごくドキドキした。

家の中の物はみんな生きていて、私に話しかけている様な気持ちだった。

初めて親と喧嘩して、部屋のドアをバタンと閉めた時、ドアが痛いと泣いている様な罪悪感で身体中が痛んだ。小学3年生の時だ。

 

その頃から、なんとなく強い気持ちや強く出る事を学び始めたが、まだまだ、拙い紙飛行機の様なフラフラした物だった。相変わらず給食は食べ終わるまでに5時間目が始まり、昼休みは殆ど遊べなかったけど、段々、噛まないで飲み込むこともこの頃に覚えた(笑)

そんなのんびり、咀嚼は口の中で飲み込めるまでという、ゆっくり楽しみ生きていた私だが、

その翌年には、それから何十年も引きずる事件が起きる。それについては限られた人にだけ公開していることだけど。

 

ちょうど3年生のドアの閉めた音のせいで、ティンカーベルが魔法をかけたのか、私の中の自我と、身体や心の成長と、忌まわしい事件と周りの環境の変化が、ピタリとハマった様にその瞬間から、私は少しずつ、そして大きく変わっていく。

 

でも元々の私はポンコツで、例えば親戚が私にプレゼントを持って来てくれても、有難うというのも恥ずかしくて、何時間か一緒に居てくれないと話も出来ず、さて帰ろうかとなると、寂しくて泣くという有り様だった。

 

他にも親戚が私の親にピアノやサックスを習いに来たりしていたのだけれど、それでも帰るとなると悲しくて泣く。

 

でもこんにちはは恥ずかしくて言えない。

 

どんだけ内気かよって言うくらい内気の塊だった。

 

一日中、本を読んでいられた。

 

厚さ3センチ位の児童書なら、1日で1〜2冊読めたし、そんなに買ってもらえないと、何回も読み直していた。

 

広告の裏や、今やテレビ関係者がよく使うあの黄色と黒のスケッチブックに、いつも絵を描いていた。

黙っている事が全く苦にならなかった。

 

小学生になる前に本だけ読んで、3時間以上集中出来るって、今の私でさえ感心する。

 

その位、本は楽しかった。

 

そんなポンコツが、3年生から少しずつ変わったとは言え、まだ、20歳を過ぎてまもなく、社会でどうにか母子家庭としてやっていこうと言うんだから、まぁ、本当にこの世の中にどれだけ助けられたかわからない。

 

でも私なりに、歯を食いしばったり、本来持ち合わせない闘争心を燃やしたり、勝気になったり、して来た。

私の嫌いな私を何年生きたかわからない。

 

 

 

 

 

 

 

 

息子が亡くなった。。。

 

 

 

 

もう本当にそんなことしなくてよくなったんだ。その事自体が悲しくて、そしてこの働かないでいる数ヶ月はとても悲しいけど、体は健やかだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

でも本当は、それでも

 

 

 

 

Wish you were here

あなたがここにいて欲しい。

 

 

 

 

 

 

 

きっとそこに居るよね。

いつもありがとう。

 

 

 

思い切りのんびりと進行している引越し

年末からゆっくりと、それは始まっていて、それまで手をつけることのなかった、父と息子の遺品の整理から始まり、手をつけなかったのは辛いからで、手をつけて見ればすぐに泣いて動けなくなる毎日で、何をやってるんだかわからなかった。

 

それでもゆっくり、1つずつ捨てたり残したりを繰り返して、本当に世界遺産の如く、そこにあるのが当たり前だったゴミ、という存在にも気づいた。別れは辛いのだけど、ただそこにあるだけの物。

 

それらを見直す機会になったと同時に、そこに父がいたり、そこに息子がいたのだとも知ることができた。

 

私はそれらに囲まれていて、なにかを手にいれていた。

 

ライナスの毛布だったのかもしれない。

 

 

もはや、息子が成長して行く時に、大きく関わったこの家自体が、もう私のものでなくなっていき、更に壊される日が近づいているのだから、感傷に浸る暇もそんなにない。

 

笑えるのは座れるの?と思われるほど、ボロボロのダイニングセットを、私はボンドや紐で直して使っている事で、もう座面は破れていたが出ている。

 

このセットはこの家と同じだけここにいる。

 

普通の人なら取り替えているのかもしれないけれど、私には考えられなかった。

このダイニングテーブルで母は糖尿と闘い、食後にクッキーを食べる食べないで私と大喧嘩になり、私が食事をしなくなって、激痩せした。

 

このダイニングテーブルで、私の作った食事を家族全員で食べた。

このダイニングテーブルで父は母を亡くして1人泣いた。

このダイニングテーブルで、私は父を亡くして泣いた。

このダイニングテーブルで、今、息子と家族を思って泣いている。

 

 

 

もうあまりにも使えないので、この家にある間は誤魔化して使っていたけど、本当に捨てなくてはならないので、捨てます。

 

 

この家には本当に40年以上も前の物も沢山あって、木製のワゴンは、前の家の時からあるし、鏡のないドレッサーもかれこれ50年使っている母の遺品だ。

 

でも私は持って行く。

 

サイドテーブルは、60年ぐらいの年季の物は捨てて、30年の物を持っていく。

 

父の老後に何故だか沢山買い込んでいたあのロボットみたいなテレビはすてる。

以前も2台捨てたことがあるけど、まだあって、また2台捨てなくてはならない。

 

あの時、お金無くて捨てられなかったんだっけ。。。。

息子は父の介護を私がしなくてはならない間に、すっかりギャンブルとオンラインゲームにハマってしまっていた。

 

その後に腸重積などで大手術になるほど、癒着やら起きて生死の狭間を行き来した後、再就職がとても大変で、その間に、私は軽く200万を失う。

 

その後もなんだかんだで70万。

 

そして最後、どんなに私が説明しても、お金を管理することが出来ない彼には、それが大きなストレスとなって、病気もあったけど、またお金を持ち出す。

 

思い出すだけでも辛かった。

 

私が死んだらこの子はどうなるんだろう。

 

私は彼に殺されてもいいと本気で思いつつ、犯罪を起こさせてはならないから包丁をしまい、覚悟し切っていつもしっかり出ようと、毅然と譲らなかった。

そうすることは辛かった。

親ならわかると思うけど、子供を叩けば叩いた手と心が、その痛みの何倍にもなって戻って来るし、叱って声を荒げれば、その何倍も心が苦しくて悶えてしまう。

母しか出来ない苦しさは、それでも母として私はそうし続けるのだ、と確信していくしか出来なかった。

 

まさか、息子が先に逝くなんて、全く計算外だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

はぁ、いつも結局、この悲しみが私を襲う。

優しくしたかったし、私がああしていた向こう側の夢は、彼と私はゆっくりでも小さく働いて、彼の借金も全額返し、私は彼の為に朝、昼、晩と食事を作って、穏やかに過ごしたかった。

 

 

 

 

 

 

 

私の母は、私と最後まで折り合わなくなってしまったのだけれど、それでも母は、私と私の息子と、小さな家で暮らしたかったと、最後の方に言っていた。

 

 

華やかで、なんでも持っていってしまうほど、綺麗で、明るい母は、どちらかと言えば内気で(今や誰も信じない程、完成されたペルソナは持っております)1人で黙っている方が好きな私には、かなりウザい存在でもあり、彼女から配給されるものに甘んじているのも嫌だった。

母は、料理が下手で、どうしてあんなに一生懸命やるのに美味しくないのかわからないけど、甘辛いか、塩胡椒か、ケチャップ味か、ソース味、醤油味しかない人で、私はお陰で給食が不味いと思わなかった(笑)

友人の家に行くのもかなり制限されていたけど、流石に中学生にもなると行動範囲はそこそこ広がり、広がれば嘘ついてでも人並みになって、世の中を知っていく私は、みるみる不味いと美味しいとはこんな物だったのだと気付いていく(笑)

 

料理は小学生からやっていて、母が頑張る為に買ってきた料理の本は、すっかり私の基礎の中に組み込まれ、私は環境の割に料理が得意になっていく。

 

母と私はそういう意味では全く逆で、だから分かり合えないことも沢山あって、母のポジティブは感情的で、私のポジティブは理屈っぽい。

 

いずれにせよ、人の生き方などは正解もないし、余りが沢山ある計算式のような物で、分数や、代数で置き換えても、細かいところにズレがあり、更に何事もパラドックスによる誤差もあるのだから、会うなんてあり得ない、こうして発信した文章が、たまたま、誰かに触れても、その相手の勝手な解釈で、共感したり、反感を持ったり、考え直したりであるに過ぎないし、また、私も他人のブログを渡り歩いてはそんなことを繰り返しているが、存在が文章だけであるのと、人から語られる言葉に比べれば、はるかに文章だけの方が私は居心地が良い。

だからブログが好きだし、読むのも書くのも大好きなのだけど、私と母は、言葉バトル、本人の見かけも含んでのバトルになると、圧倒的に母の方が完成されていた。

だからいつも私は敗北感に一杯になっていたし、私は母の望む子供にはなれないと、辛かった。

 

私は家を出て、初めて自分が少しは、見られるに耐えられる存在なのかもしれないことに気づいたくらい、私はコンプレックスの塊だった。

 

小学生から化け物、お化け、フランケンと、大柄で太っていたので言われてたし、腰高で、歩く時、今で言うヒップホップな歩き方だったので、踊りながら歩く人とか言われた。

 

あー、今思えば生まれるの、45年くらい早かったかもー(笑)

 

 

 

そんな母は、私が家を出て10年で亡くなってしまった。途中、2年ほど一緒に暮らしたけれど、糖尿なのにお菓子をやめない、腹八分でいられない。

 

 

私が激痩せしても、そんなことに気づかないくらい、母はその病と闘い、でも食事を改善出来ず、家の中ではいつもその事で争っていて、私達が折れてしまう。

 

 

 

 

 

 

 

そんな思い出も、きっともう、無くなっていくんだ。

 

 

 

私は思い出から解放されて楽になるのか、悲しみも忘れてしまうのか、多くの私の罪はどうなるのだろう。

 

 

 

あの時に母を叩いても、食べることをやめさせられたら、とか、息子に甘々な私でいられたらとか、愛していることにもっと素直でいられたらとか、自分の罪は数限りなく、悲しい思い出の裏にびっしりとある。

 

 

 

信念があり、時に憎しみになって心に現れていたとしても、それは私の心の中の愛であり、そして誰よりも私は私の犯している罪を知っている。

 

民事や刑事事件ではないけれど、私が私を生きていくだけで、罪深いのだ、と、いつも思う。

 

 

 

ひょんなことから、牧師様と知り合って、その牧師様と知り合った場所で働いていた時に息子は亡くなった。

 

 

 

牧師様曰く、キリストは人である上の罪を全て負ってくださっているから祈りなさいと言う。

 

私は彼に会うまで、その罪というものさえ知らなかった。みんな罪なんか負っているのかと反感さえあった。

 

罪とはそんなものではないと言う。

本当に悪いことが罪ではない。

悪いことをしたから罪なのではなく、ただそこに罪があって、私達は生まれた事からその罪を持ち、更にキリストに祈ることによって、その罪を許されている。

 

 

 

まだそこが、なんとなくわかってきた、、程度で、このキリスト教の基礎の基礎さえ深淵だ。

 

 

 

 

 

 

引っ越したら、私は少しキリストを学ぼうかな。

 

 

少しそこに希望を持って。

 

 

 

いつ死んでもいいんだ。。。

去年の元旦まで、どんなに辛い事があっても、私は自分に言っていた。

 

必ず1度は死ぬのだから、今でなくていい。

 

辛いを沢山溜めて、感じなくなるほど溜めて、それでも最後に死んで楽になるのだから、今じゃない。

 

そう思うと、あー、いつかは死ねるんだなぁとほっとして、少し頑張ろう、と思う事ができた。

 

 

何回も何回も空を見上げては、今じゃない。

 

 

去年の元旦に息子が亡くなった。

 

彼は精神的に病気になって、その病気の中に逃げ込んだ。

後からわかった事だけど、彼は逃げ込みつつも、もしかしたら自分はそんなに重い病気ではなく、これは治るんだ、逃げ込んでいるのかな?と考えが頭をよぎったらしい事が、書いてあった。

 

でもそのままの気持ちを元上司に、汚い言葉を書き綴ったメールやら、恨みやら、怨みやら、思い切り詰め込んで吐いていたりして、本人の辛さがどこにあるのかもわかった。

 

私とは会話をしたり喧嘩をしたり、、ほとんど後半は喧嘩の毎日だった。

 

私もこんなに辛い、、、

精神を病んだ家族は、本人に代わってやらない分、そして、正気と強気で、負けないで、正気を譲らない何かを持ち続けてあげなくてはと言う思いと、本当に自分に起きている事ではない苦しさで、心はズンと重くなって、毎日がとても痛みのある毎日だった。

 

顔を見る。息子の顔を見ると、今日は少しいい目をしている、今日は狂気が入っている、その繰り返しで、眠れない眠れないと、睡眠薬を飲みすぎて、おかしくなって行く。

 

そっと部屋を覗く。寝ているのだ。

本人は爆睡していびきをかいているが、後から僕は起きていた、あの時間のことを知っていると言う。

 

頭のどこかが寝ていない。

そんな状態らしい。

身体も寝ているのに、何か寝られない。

 

私も辛くて死にたかった。

毎日、生きているのが辛くて、でも私が死んだら彼はどうなるんだろうと、もうギリギリに辛かった。

 

でも今じゃない。

いつかは死ねるんだから今、死ななくていい。

そう生き続けることを自分に言い聞かせて生きていた。

 

 

 

 

そして息子はあっけなく亡くなった。

仕事中に、車止めにつまづいて頭を強打して亡くなってしまった。

 

 

あれから1年が経つ。

引越しを決めた私はそのストレスと、哀しさと、思い出の数々を改めて両親の分まで纏めて整理するせいで、おかしくなってきている。

息子の思い出と、親との時間を整理して捨てていく。

ここで別れていくのだ。

 

 

自分の最後の時間のために。

 

 

 

何より本当に悲しいのは、息子が亡くなってこんなに悲しいのに、あの精神状態で生きている息子を見ないで済むのが楽である、、と言う事も残酷に辛い。

 

こんなに孤独で、誰も居なくなって、天涯孤独で、親戚も何もかもない私は、それでもあの苦しむ息子を見ている時より楽なのだ。

 

 

 

 

 

それが何より辛い。

 

本当に辛くて哀しい。

 

 

 

 

私は生きている。

 

 

 

そして思う。

 

いつ死んでもいいんだな。

 

 

 

それこそ、この家の決済と、新しい住まいの決済をきちんと終えたら、私は本当にいつ死んでもいいんだ。

 

今じゃないと言う理由がなくなってしまった。

 

 

 

いつ死んでもいいんだな。

 

色々あって誠によろしくない。

この家を売って、引っ越して、、、

ということをした。

もう間も無く引っ越しだ。

 

 

この半年近い間、私の精神状態はかなり不安定になっている。

私の意思で、両親と、息子の成長の思い出全てを捨てようというのだから、やはりなんとも言えない色々な気持ちが私を襲う。

 

なんなのかわからない落ち着かない気持ちは、色々な気持ちが綯交ぜになっていて、どれ、どんな、とわからない。

誰かと話して気持ちを整理したいのだけれど、なかなか、その相手もいない。

 

そんな気持ちでの仕事の帰り、私は足を捻って転ぶ。肋骨を折る羽目になるのだけれど、1週間ほどは、様々な物でごまかして、鎮痛剤やら湿布やら、、で、どうにも痛みが尋常でなくて、痛みより体全体が怠くなって医者に行ったら肋骨を折っていた。

 

やっとコルセットで痛みが楽になって横になっている時に、お父さんお母さん、すみません、この家を売ります。と口をついて言葉が出てきた。

 

少し心が軽くなった。

 

それでも家の売買が進んできたりすると、また心が落ち着かない。

 

両親への感謝と、申し訳なさは毎日のように唱えている。そのうちに今度は指の腱を切る。

 

その痛みや不自由さは、もう一月半経つのにまだ治らない。とても時間が掛かっている。

その間に荷物を片付けて行くのだけれど、その度に悲しくて涙が止まらない。

 

この家には父の結婚する前からの宝物もあれば、息子の宝物もある。

 

父の宝物は、またいつか、ブログにあげようと思うけれど、若い男性の、迷う姿、戸惑う姿を書いた手紙であり、父はそれを大切に持っている。叔母が祖父に宛てて父の姿を書いているのだ。

 

父はそれを持って、自らを律していたのだと思う。私にとっても宝物になった。

 

色々な写真もある。本は捨てた。

私の本と合わせて、600冊ほどあった。

とても次の家には運ばないし、運んでも読みきれない。

なので、古本屋さんに売った。

 

一つ一つの行為が悲しくて、別れもいよいよとなるとかなりこみ上げるものがある。

 

私の決断、私のやっている行為だから全て私の責任として私に降りかかってくる。

 

重い。

 

 

息子ともいつも話しながら片付けている。

 

 

 

息子は生きている方が良かったのだろうか。

あちらに行った方が楽だったのだろうか。

 

最後に私の手を握りしめたのは、苦しかったからだろうか。

何か言いたかったのだろうか。

 

それは生きたいと言っていたのだろうか。

 

 

 

 

私は、、誠に精神状態がよろしくない。

こういう時にこそ、友人にそばに居て欲しい。

 

 

でもなかなか難しい。

9月から頼んでいるけど、報われていない。

 

みんな忙しく、みんな大変だ。

私は友人の抱え込んでパンパンな姿を見て、やはり心が痛む。

あなたが全て抱えたら、誰も抱えられないよ。

あなたが全て手放したら、思い通りではないかも知れないけど、誰かが少し抱え始めるかも知れない。

 

でも、もう必死になってて、私は体を心配してしまう。

 

 

まだわたしの順番は回って来そうにないなぁ。

私の為に時間を割いても、きっと豪華な試食みたいに、切り取られた時間になってしまう。

 

逆に私の家にゆっくり時間作って泊まってくれれば、ホッとするのかなぁ。。。

 

 

などと思う。

 

 

だからとにかく、私はちゃんとやるべきことをやって、他人様に迷惑がかからないようにして、次にステップを踏まなくてはならない。

精神状態は誠に不安定ではあるけど、しっかりしなくてはならない。

 

 

本当は泣きたい。大声で泣いて、泣いて、うわぁと、叫べたらきっとスッキリする。

でも、涙はじんわりと出ては心を締め付けて、もう流れない。

 

 

その繰り返しがしんどい。

 

 

 

誰にも言えない色々な親子だけの秘密のことが、私を動かなくする。

人の前に出る精神状態はとっくに萎えて、もう、買い物してても数は歩けば悲しみで前屈みになる。

 

この町の、この空ともお別れだ。

全ての風景が、過去になる。

 

完全なるアナザースカイ。

 

 

 

そこに行ったら泣けるのか、泣きたい、泣いて息子と2人で話したいことが沢山ある。

 

 

だから引っ越し先の、ベッドルームに、仏壇を置くことにした。

私は忙しくなって引きこもり始めたら、ベッドルームから出ないと思ったからだ。

今度の家は二階リビングだから、ちゃんと二階に行かないと、何もできない。

 

 

風呂とトイレとベッドルームは下にある。

ということは、引きこもり始めたら、絶対ここに篭る。計算済みである。

そして古いレンジも部屋に置くことにした。

 

 

これで私はどんなに忙しい時でも、息子と両親に挨拶をして、風呂に入り、そして仕事に行く。食事はレンチンで、近所のコンビニ食になっても大丈夫だ。

 

 

そうしたらきっと何か答えが見つかる。

私はそう思ってこの家に決めた。

 

 

 

本当は友人がそばに居て欲しかったけど、みんな自分の人生に起きていることで忙しい。

私の親でさえ、そうだ。

当たり前の話で、その合間にどれだけ真剣に話ができるかなんて、偶然みたいにベクトルが合うのを待つのも疲れる。

その度にがっかりするのも悲しすぎる。

 

 

みんな、ガチガチになって突き進まなくてはならない時がある。

パートナーや家族に当てつけたり、頑張る姿を励みにしてもらいたかったり、ここで負けてはならないと思う。

 

私もそうだったから、良くわかる。

 

思い切りやって、あれ?自分がやったから誰もやらなかったのかも知れないな、と気づく頃には、すべては終わっている。

 

だからみんなやることをやる時にやらなくてはならないのだ。

 

 

わかっているから引いた。

 

 

私は私の生き方を、自分の中で見つけなくてはならない。

 

 

私の精神状態がとても良くない。

とても不安定だけど、ここにこうして書いて、少し楽になって行く。

 

 

 

 

 

墓の裏へ廻る

尾崎放哉の句だ。

たったこれだけで、頭の中はいろいろなことが巡る。
すごい句だと思う。


お墓の裏には、亡くなった、お墓に埋葬された方々の名前と享年などが書かれている。

何故それを見ようと思ったのだろう。

自分の祖先や家族の、思い出には何があるのだろう。

 

祖先の名前があり、亡くなった月日と、享年がある。
両親も居れば兄弟がいるかもしれない。
その名を見て、亡くなった日を見て、何を思うのだろう。

思い出すことはなんだろう。

 

 

私も家族は皆、亡くなってしまった。

位牌を見て、思う事は

私を見ていて

と願う。

 

そこには何もないのに、そう思う。

 

享年を鑑みて何を思うのだろう。

私は時々、父や母が亡くなった年齢を、振り返って見てみたくなって、位牌を裏返す。

息子はまだ、とてもそんな気になれない。

 


自分の何を見つめ直すのだろう。

私は母が居なくては駄目なぐらい支配されて、反抗して飛び出した。

父は家族として自分の中では存在していなかった。

 

母は私が27歳の時に亡くなり、私は母のそばにいられない事をいつも申し訳なく思って泣いた。

 

父は私といつまでも反りが合わなくて、最後の最後にボケて、そんな頭で私を探し当てて、面倒みてくれと言ってきた。

 

そして亡くなるまでの3年ほど、父と暮らした。

 

 

その時間に私はとてもただを愛していた事を知った。

 

 

 

何があったら見たいと思うのだろう。

息子の享年は早生まれで誕生日前だったので、2歳足すことになるという事を何かで読んで、そうしたけれど違和感。

尾崎放哉と同じ歳で亡くなった。

 

 

何があったから見ようと思ったのだろう。

そして何を思うのだろう。

 

いつだって、もう自分の終わりはいつなのかなと思う様な時に見たくなる。わたしは。

 

 

 


お墓の裏に廻った時に、墓地はどんな様子だったのだろう。

 

お盆やお彼岸なら、あちこちのお墓が洗われて、線香の香りと、美しい花があったろう。

 

人知れず、ひっそりとした時間に、お墓に行ったのなら、何故そんな時にお墓に行こうと思うのだろう。

 

行ってそこにある名前の誰に何を語ったのだろう。

 

 

 

そして

 

裏に廻る。。。。

 

その時、墓地の空に何があったのだろう。

 

明るい青空ではない様な気がする。

私の中ではどうしても冬の曇り空だ。
寒い墓地が浮かんできてしまう。

 

 

でも小春日和だったかも知れず、
真夏の通り雨の直後かも知れない。
雨上がりの青空に虹があったかもしれない。

 

 


そこで放哉は、何を語るのだろう。
何を思うのだろう。

 

 


いずれにしても

 

 

 

 

悲しみが一筋ある。

断捨離。

齢60にして、引っ越すと言うことと、断捨離と同時に、それぞれの持ち主である亡くなった家族との決別をしている様な毎日は、とてもしんどい。

 

でも良く考えると、それらはしっかりと仕舞われて、家のスペースを陣取って、そして風景になっていただけで、それがそこにあったことさえ、忘れられていた。

風景は、他人がみたら、どうしてこんなに狭くしているのだろうと思われる程、空間を占領して、それが私にとっては参拝しない氏神様の様にただそこにあった。

それを今、また目にするから、捨てられない、とか、あの時、父は、母は、息子はと頭をかすめるのだと思う。

 

私に色々な行動をさせるのは、私の決断もあるが、そうしなければならない事情もある。

そうしなければならない状況は、大抵、自分で作っているので、結局はそれコミコミで、無意識にそうせざるを得ない様に追い込んでいる、とも言える。

 

流石に60にもなると、引っ越しと断捨離は含まれて想像はしていた。こんなに捨てるとは思わなかったけど、無意識にこの大変さに身体が、心が固まって、何も出来ない日々がかなりあった。

逆に普通に出来ていた掃除が出来なくなり、心が鬱になり、堪らなくなったある日、不意に

お父さん、苦労して建てた家を売ってごめんなさい

と言う言葉が出て、身体が少しずつ動く様になった。なんだかよく判らない事はあるものだ。

 

使っていない物を捨てる、それだけの事なのに、なかなかどうして、捨てられない物があって、やはりそして又、私は風景の一部を残している。これがまた、周りに少しずつ、贅肉の様に重なる風景を作ると分かっているのに。

 

 

本当にもう、要らないものは捨てる。

その癖をつけないと。

 

 

そして自分は、実際はかなりシンプルな生活をしていることにも気づく。

今回、生活に必要な最小限以外、梱包していきながら捨てると言うことをしている。

殆ど梱包できるのだ。

電子レンジと、フライパンひとつあれば、なんでも作れる。

調味料も塩と胡椒と醤油があれば大抵の物は食べられる。

冷蔵庫にある物、冷凍してある物をどんどん消化していたら、2週間も生活出来ている。

野菜も全て冷凍してあるので、使い放題。

まだ、買い物しなくて良さそうだ。

仕事を2週間ほどする予定なので、それに必要な物と、風呂、化粧、持病の薬、コーヒー、仕事着、靴下、下着、作業着と寝巻き。

 

これだけで1か月、苦もなく過ごせそうなのだ。それを知ってしまうと、なぜ、私はこれを持っていこうとしているのだ?と言う問いも生まれてしまう。

 

つまり、持っていっても使わない。

使う暇がない。必要がない。

服は何のために必要なのか?

食器は何のために必要なのか?

 

 

 

よく考えれば、自分がそう言う物を用意しておく事で、どこかにお洒落して出掛ける夢を見ていたり、沢山の人が家に訪れる事を想像しているに過ぎない物も沢山あるのだ。

そう言う物は捨てなくてはならない。

沢山来たら、紙のお皿でもいい。

本当にお洒落して出掛けるなら、もっといい服を1着だけ、冬と夏、用意しておけばいい。

そして5年に1度、買い換える。

 

 

引っ越した先でも捨てるのかもしれない。

いや、捨てられる自分でないといけないなぁ。

人間は実にシンプルに生きている。

本当はもっと必要ないのだ。。。

 

 

と、ここでため息。

 

 

 

 

捨てられないなぁ。。。

 

 

 

息子が亡くなって376日目。加筆しました。

引越しをするので、片付けている。

心身、誠に宜しくなく、素晴らしいストレスだ。悲しみや、後悔や、感謝や、喜び、色んなものが出て来る。

 

息子は亡くなる3年ほど前から統合失調症になっていた。

彼は自分の中で憎んだり、恐れたりしたものが、自分の中にあることを知った。

自分が怖くなり、憎み、私を憎み、それを恐れ、、、、訳わからないでしょう?

訳わからない。だから病気なのだ。

 

生きている事もなかなか辛そうだった。

辛そうだけど、そして頑張って生きて、更に私は、彼がパラサイト的になる事を許さなかった。私がいると言う事を、とにかく彼にはあてにさせない、そうしなくてはならないと頑張っていた。

何故なら私が先に逝くのが普通だからだ。

私が先に居なくなり、働けなくなり、そして、彼は生きていかなければならない。

 

息子は40を過ぎていて、再就職もバイトも一旦辞めてしまうと、病気の為に辞めたとなると再雇用は難しいと思われたから、雇用先を辞めさせず、休む事はあっても、馘にもならない様に気を使い、そして、金銭的に自立させようとしていた。

 

私の心はギシギシ音を立てていた。

私は息子を見ると辛くて、悲しくて、そして抱きしめることが出来なかった。

心は痛みで悲鳴を上げて、いつも叫んでいた。

息子はその叫び声が聞こえるかの様に、私の顔も見なかった。

 

 

私は捕われるようにそして彼を自立させて、病気に自分で立ち向かえる様にといきり立っていた。

私に甘えさせてはいけない。

 

 

私の元にいる事も、やめさせようとしたことさえある。どこか遠くに行かせようと思ったのは、例えば牧場や畑の仕事をして、汗を流して広々とした自然の中で、空と土に抱かれたら、そして私と離れたら、彼は治ると思われたからだ。

 

でも彼は私がいい、私から離れないと言った。

 

更に40を過ぎると、そう言う農家、農場の仕事先もなかなかなかった。実際はあるのだろうけど、見つけられなかった。

 

 

私は途方に暮れていた。

 

私は彼をどうにか自立させなくては、どうにか私から卒業させなくては、とそればかり考えていた。

 

 

 

私は彼を追放したいのではなく、自立させたかったのだ。そして私が、彼のためにやって来た事を、いつもいとも容易く、裏切る様に、彼は裏切っていく。

 

私の家のお金を抜いて、使い込むのだ。

 

 

 

 

私は怒り狂って、情けなくなって、訳が分からなくなった。

悲しくて絶望した。

 

 

何回も盗む。

 

 

 

毎日家の中で現金をしまう場所を変え、入っている金額を確かめ、そうしている自分に、疲れ果てていた。

 

 

 

 

 

 

 

376日前、息子は亡くなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

仕事中につまづいて転倒して亡くなった。

 

 

 

私が先でなくて良かった、、、、

 

 

私なら大丈夫。。

 

 

 

 

 

悲しみは、やっと最近、訪れて来た。

喪失感はあったけど、悲しみを感じる余裕さえなく、とにかく、自分が立ち直るために一生懸命だった。

 

 

 

やっと、泣ける。

 

 

 

 

 

息子が子供の頃の写真が山の様に出て来た。

幸せそうに笑っている。

とてもとても仲良くて、あんなに楽しかったのに、私が彼を自立させようとしたのが悪かったのだろうか。

 

 

亡くなる3日ほど前に、つい、頭を撫でてしまった。可愛くて。

 

すごく嬉しそうに笑った。

 

そんなに嬉しいの?

 

 

頷いていた。

 

 

 

 

 

翌日も頭を撫でた。

 

狂気の目で私を睨んだ。

 

 

私は見なかったフリをした。

 

 

 

 

2日後に彼は事故を起こす。自分で転んで頭を打った。

 

 

 

 

 

 

 

 

息子が亡くなって346日目。

 

 

何かあると泣いている私がいる。

 

息子はいつも言っていた。

僕は絶対に死なない。だってお母さんが泣くから。

 

でも私はあの辛そうな息子が、病気で苦しんで、妄想や幻想に囚われている息子が、生きていることが辛かった。

 

 

 

 

息子が亡くなって376日目。