墓の裏へ廻る
尾崎放哉の句だ。
たったこれだけで、頭の中はいろいろなことが巡る。
すごい句だと思う。
お墓の裏には、亡くなった、お墓に埋葬された方々の名前と享年などが書かれている。
何故それを見ようと思ったのだろう。
自分の祖先や家族の、思い出には何があるのだろう。
祖先の名前があり、亡くなった月日と、享年がある。
両親も居れば兄弟がいるかもしれない。
その名を見て、亡くなった日を見て、何を思うのだろう。
思い出すことはなんだろう。
私も家族は皆、亡くなってしまった。
位牌を見て、思う事は
私を見ていて
と願う。
そこには何もないのに、そう思う。
享年を鑑みて何を思うのだろう。
私は時々、父や母が亡くなった年齢を、振り返って見てみたくなって、位牌を裏返す。
息子はまだ、とてもそんな気になれない。
自分の何を見つめ直すのだろう。
私は母が居なくては駄目なぐらい支配されて、反抗して飛び出した。
父は家族として自分の中では存在していなかった。
母は私が27歳の時に亡くなり、私は母のそばにいられない事をいつも申し訳なく思って泣いた。
父は私といつまでも反りが合わなくて、最後の最後にボケて、そんな頭で私を探し当てて、面倒みてくれと言ってきた。
そして亡くなるまでの3年ほど、父と暮らした。
その時間に私はとてもただを愛していた事を知った。
何があったら見たいと思うのだろう。
息子の享年は早生まれで誕生日前だったので、2歳足すことになるという事を何かで読んで、そうしたけれど違和感。
尾崎放哉と同じ歳で亡くなった。
何があったから見ようと思ったのだろう。
そして何を思うのだろう。
いつだって、もう自分の終わりはいつなのかなと思う様な時に見たくなる。わたしは。
お墓の裏に廻った時に、墓地はどんな様子だったのだろう。
お盆やお彼岸なら、あちこちのお墓が洗われて、線香の香りと、美しい花があったろう。
人知れず、ひっそりとした時間に、お墓に行ったのなら、何故そんな時にお墓に行こうと思うのだろう。
行ってそこにある名前の誰に何を語ったのだろう。
そして
裏に廻る。。。。
その時、墓地の空に何があったのだろう。
明るい青空ではない様な気がする。
私の中ではどうしても冬の曇り空だ。
寒い墓地が浮かんできてしまう。
でも小春日和だったかも知れず、
真夏の通り雨の直後かも知れない。
雨上がりの青空に虹があったかもしれない。
そこで放哉は、何を語るのだろう。
何を思うのだろう。
いずれにしても
悲しみが一筋ある。