断捨離。
齢60にして、引っ越すと言うことと、断捨離と同時に、それぞれの持ち主である亡くなった家族との決別をしている様な毎日は、とてもしんどい。
でも良く考えると、それらはしっかりと仕舞われて、家のスペースを陣取って、そして風景になっていただけで、それがそこにあったことさえ、忘れられていた。
風景は、他人がみたら、どうしてこんなに狭くしているのだろうと思われる程、空間を占領して、それが私にとっては参拝しない氏神様の様にただそこにあった。
それを今、また目にするから、捨てられない、とか、あの時、父は、母は、息子はと頭をかすめるのだと思う。
私に色々な行動をさせるのは、私の決断もあるが、そうしなければならない事情もある。
そうしなければならない状況は、大抵、自分で作っているので、結局はそれコミコミで、無意識にそうせざるを得ない様に追い込んでいる、とも言える。
流石に60にもなると、引っ越しと断捨離は含まれて想像はしていた。こんなに捨てるとは思わなかったけど、無意識にこの大変さに身体が、心が固まって、何も出来ない日々がかなりあった。
逆に普通に出来ていた掃除が出来なくなり、心が鬱になり、堪らなくなったある日、不意に
お父さん、苦労して建てた家を売ってごめんなさい
と言う言葉が出て、身体が少しずつ動く様になった。なんだかよく判らない事はあるものだ。
使っていない物を捨てる、それだけの事なのに、なかなかどうして、捨てられない物があって、やはりそして又、私は風景の一部を残している。これがまた、周りに少しずつ、贅肉の様に重なる風景を作ると分かっているのに。
本当にもう、要らないものは捨てる。
その癖をつけないと。
そして自分は、実際はかなりシンプルな生活をしていることにも気づく。
今回、生活に必要な最小限以外、梱包していきながら捨てると言うことをしている。
殆ど梱包できるのだ。
電子レンジと、フライパンひとつあれば、なんでも作れる。
調味料も塩と胡椒と醤油があれば大抵の物は食べられる。
冷蔵庫にある物、冷凍してある物をどんどん消化していたら、2週間も生活出来ている。
野菜も全て冷凍してあるので、使い放題。
まだ、買い物しなくて良さそうだ。
仕事を2週間ほどする予定なので、それに必要な物と、風呂、化粧、持病の薬、コーヒー、仕事着、靴下、下着、作業着と寝巻き。
これだけで1か月、苦もなく過ごせそうなのだ。それを知ってしまうと、なぜ、私はこれを持っていこうとしているのだ?と言う問いも生まれてしまう。
つまり、持っていっても使わない。
使う暇がない。必要がない。
服は何のために必要なのか?
食器は何のために必要なのか?
よく考えれば、自分がそう言う物を用意しておく事で、どこかにお洒落して出掛ける夢を見ていたり、沢山の人が家に訪れる事を想像しているに過ぎない物も沢山あるのだ。
そう言う物は捨てなくてはならない。
沢山来たら、紙のお皿でもいい。
本当にお洒落して出掛けるなら、もっといい服を1着だけ、冬と夏、用意しておけばいい。
そして5年に1度、買い換える。
引っ越した先でも捨てるのかもしれない。
いや、捨てられる自分でないといけないなぁ。
人間は実にシンプルに生きている。
本当はもっと必要ないのだ。。。
と、ここでため息。
捨てられないなぁ。。。