uchunohazama’s blog

孤独がデフォルト。

私らしく生きる

先日、SNSで私らしく生きるわと言ったら、知り合いに私らしいっていうのがわからないと、噛み付かれてしまった。

自分勝手に生きて人に迷惑かけることか?と返されたので、あ、私のいう私らしさと次元とか、感覚とか違うなぁと思ったので、できるだけその会話から離れたくなって、逃げた(笑)

こういう話を、SNSのレスポンスで遣り合うと、言葉遊びみたいになって、屁理屈を言い合うだけになってしまうので、避けたくなったというのもあるし、反駁に対応しているうちに、屁理屈と屁理屈になってしまうのが嫌だったから。。

 

私は最近、逃げる。でも私なりに答えは残したのだけどね。

 

私らしいがわからない、という相手に、わからないのもあなたらしいからそれでいいじゃない?というのが私の答え。

 

相手のイメージは、ブイブイ自分風を吹かせて、黒いものも白くして私は私らしく生きたいの!と啖呵切る女性のイメージがあったらしい。

 

ま、私はその後の起きうる全ての事に責任持って生きてくなら、それもありだと思うし、その時にその人のそばに居たいか居たくないかは、それも私の判断で、それも私らしく決めていく。

 

 

 

私たちは毎日、小さなことで思い悩んで見たり、偉そうに社会現象について意見を持ったり、ニュースを見て考えたり、学んだり、そして自分の生き方や生きてる事を考えたり、思ったり、まあ、本当に人それぞれ、色んな生き方をしているし、その中で考えている。

 

今日はなぜ雨降りなのか、について考えることもあるし、そのことにイラついたり、怒ったり、悲しんだり、悔やむこともある。

雨降るのは仕方ない。現象だってわかっていても、人間はそんな風にいつも何かしら考えているし、また、本当に何にも考えないよーって言う人もいる。ちょっと私にはわからないけど、でもそう言う人もいる。

 

その全てに、私はすごく個人差があって、本人は人に迷惑をかけない様に、うまくやっていける様に、考えて考えているのだけれど、でも世の中はそうはうまくいかなくて、そして、あーまたか、と言うこともよくあるし、自分は何やってんだろと言うこともある。

 

でも振り返ると、私は私らしかったなぁ、としみじみ自分を思うのだ。

 

私らしいというのは無意識だけど、そして、過去に必ず残る、私らしさというものなのだ。

 

 

これは私だから残っているとしか言いようがない。そしてそれは、殆どが私の記憶の中にあり、そして他人の記憶の中ではまた色が違うだろう。

 

論理的に論破してみろと先の人に少し言われた気もしたのだけれど、私らしさが、旗や看板の様に掲げられるものではなく、どんなに同じタガを踏まない様にと頑張っても、またやっちまったり、いま、この瞬間に、その言葉をきいて、受け取ったこの感情や、判断全てが私らしさであり、私らしさがまずあるのではないのが私の感覚で、そこがすでにその人と違う。

 

それを説明出来る自信が全くなくて、面倒臭かった(笑)

 

多分、相手の人は、自分らしさ、といのは、ある一定の形や、決まったものがあって、そこに自分をはめ込む感覚なのだろう。

言葉に対しての、その人の感覚や、色や形がそれぞれあって、そこからの調整になりそうだった。

 

多分、結局は同じ事が言ってるんだろうな、そしてそう言ったら私は論破される側になるんだろうな、というのもなんか面倒で、そしてやっぱここが違う、いやそうでなくて、まで、擦り合せるのもかったるかった(笑)

 

そう、これが全て私らしさです。

 

そして、相手の人もわからないけどまぁいいや、と終わったので、それはきっと、私が降りたいのを察したのだろうし、そこが流石に大人で、彼らしいなと。

 

あ、男性なんですけどね。

 

 

面白いが、自分らしさにこれだけ食いつかれるとは思いもしなかった(笑)

私らしく、、

それは私が精一杯生きて、その中にはいい加減も、ズボラも、全部入ってて、そしてそれが私らしさなのだとしか言いようがないです。

 

私が生きている

 

人は誰でも精一杯、その中で苦悩したり、人に対して迷惑をかけない様にしたり、自分のなりに考えて生きている。

 

迷惑をかけないで生きていくのは難しい。

 

どんなに考えても、どんなに思いやっても、迷惑をかけてしまう時はかけてしまう。

相手が迷惑だと思ったら迷惑なのだ。

 

その中で、暗黙の了解や、話のスジとか、物事のスジ、礼儀、そんなものでまあまあと、お互いが気にしない様にしているのが社会だ。

 

ここまで話してしまうと、何だかお互いに屁理屈の言葉遊びになりかねないと思った。

 

だから、自分らしくという言葉には

自分なりに精一杯考えて判断して生きていきます。という意味で使われていると私は思う。

 

時にはエゴイスティックであったり、わがままでも仕方ないじゃない。

 

 

みんな自分らしく生きている、、と私は思っている。